阪神・淡路大震災〜船越隆文追悼演奏〜 2019.1.17
冬真っ只中でとても寒いですが、相変わらず毎日のように路上やパーティ等で演奏している、なかしま拓です。
ここ二ヶ月で、お陰様で東京×2 韓国 大坂 京都 沖縄の仕事をいただきました。
その中でも、大坂での演奏はとても貴重なものだったので今回まとめようと思います。
1/15~1/19 阪神・淡路大震災の追悼演奏で大坂に行って参りました。
将棋棋士を目指す、当時17歳の船越隆文君の追悼演奏でした。
毎年テレビや新聞にも取り上げられるような追悼に参加させていただきました。
母・船越明美さんとの出会い
2017年の夏、天神を歩いていると、『◯人展』という絵の展覧会のポップを発見。
つられてギャラリーの中に入ってみると、沢山の絵が所狭しに並んでいた。
数ある素敵な絵の中でも僕が見入ったたったひとつの絵があった。
それがこの絵
将棋の羽生善治さんの版画。
僕は高校時代、毎日のように将棋を指すほど将棋好きで、棋士の対局も毎日チェックしていました。将棋界の大スター「羽生善治」さんの絵がなんでこんなところにあるんだろうと、じっと見つめていた。
そうしていると一人の女性が僕に声をかけて来た。
『羽生さん知ってるんですか?』
すかさず『はい』と。
話を聞いてみると、その絵を描いた本人のお母様とのこと。
昔、息子は将棋棋士を目指しており、阪神・淡路大震災で亡くなった、と。
僕も将棋界に関してある程度の知識があったため、話も弾み、そんなこんなでその日のうちに僕の路上ライブまで見に来て下さった。
よく演奏している、千と千尋の神隠し【いつも何度でも】をえらく気に入ってくださり、息子に聴かせたいなぁ、と仰って下さった。
1月17日に、毎年、師匠の森信雄先生と門下の方々で追悼をしているから来てくれないか、とお誘いを受けたことがキッカケで、追悼演奏をさせていただく流れに。
※船越明美さんからいただいた本『棋士になりたい』と谷川浩司先生、米長邦雄先生のサイン扇子
小咲翔太について
いつもは一人で遠征しているのですが、今回は初めて二人で行った。
-小咲翔太君-
彼はまだ中学三年生で、ギタリスト。ギターを始めてまだ一年経っていないが、日々一緒に特訓した成果もあり、ステージや路上で一緒に演奏することも多々。
長い日は半日ほど一緒に演奏することも。
彼は中学生ですが、学校にあまり行っていない不登校。
しかし、音楽に救われ、人に音楽で感動を与え、人前に立つことを決意。
今回は彼と共に追悼演奏を行った。
追悼演奏
大坂に着き、1日自由な時間を過ごしたのち、16日に船越隆文君の亡くなった清荒神に向かった。
そこで隆文君の師匠であった森信雄先生宅にお邪魔させていただき、挨拶をした。
将棋好きの僕にとっては、夢のような時間だった。
その後、昆陽池に向かい、ロウソクで「思いの灯火の集い」に参加。
ロウソクを立て、祈りを捧げた。
その後、ホテルに戻り、17日を迎えた。
17日当日。
清荒神の隆文君の亡くなったアパート跡地にて追悼が行われた。
将棋棋士の糸谷哲郎八段 山崎隆之八段 澤田真吾六段 安用寺考功六段 等、錚々たるメンバーと合流し、遺影を前で祈りを捧げた。
NHKや読売新聞、神戸新聞、スポニチといっったメディアの方々も取材に来ていた。
追悼が終わり、我々は演奏に入った。
屋外での演奏だったため、大変寒かったが、二曲演奏した。
「いつも何度でも」「春よ、来い」
この二曲は、母・明美さんからのリクエストだった。
「春よ、来い」は隆文君が亡くなった時にずっと聴いていた歌だったそう。
この日のためにかなりの練習を費やした。それぞれ100回以上練習していたため、本番でも間違えることなく、良い演奏ができたのではないかと思う。
明美さんは泣いてくださり、棋士の方々も心で聴いてくださり、感無量だった。
こうして、追悼演奏が終わった。
その後
追悼演奏が終わり、森信雄一門の新年会が始まった。
いつも追悼の後、ホテル若水に集まり、食事をするのが常だそうだ。
そこに同席させていただき、私たちも食事をいただき、温泉に浸かった。
将棋の先生方はとても良い方々で、将棋好きの僕としては天にも昇るような気持ちだった。
※追悼参加棋士及び親族、私たちのサイン色紙
このような機会を恵んで下さった明美さんに感謝をしたい。
追悼演奏を通して
震災というのは、犠牲になった本人以外にも多くの方の心に傷跡を深く刻みつけるということを身を以て理解した。
明美さんは1/17が近づくと、毎年体調が優れなくなるらしい。
もう2度とこのような悲劇が起こらないことを願うばかりだ。
演奏で癒しを届ける立場である私たちも、多くのことを学んだ追悼だった。
そして、中学生でありながら、一緒に大阪まで来てくれた小咲翔太君ありがとう!親御さんにも感謝です。
今後の彼の活躍にも期待。